東京、恵比寿・渋谷の自爪育成、ネイル育成ケア・マニュキュア専門サロンならグランクール
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KANAKO HANAI
爪健美道®家
主宰ネイル育成ケアリスト 花井可奈子
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- 生年月日
- 1962年8月29日
- 出身地
- 静岡県浜松市
- 血液型
- O型
- 趣味
- 歌舞伎鑑賞、お菓子づくり、 ヨガ
- 好きなもの、こと
- 海苔、しそ、ゴマ、炭水化物、赤ちゃんせんべい、梅干し、キウイ、着物、グレージュ、整体、美容室、健康グッズ、靴、鞄、時計、母、恵比寿、中村獅童、Brother.KORN、キティ、NHKドラマ、あさが来た、高タンパク低脂肪レシピづくり
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爪健美道®︎家 花井可奈子より皆様へ
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爪を健康に、ココロを豊かに
今はIT化がすすみ、ネットで何でも手に入り、AIがあらゆる世界を支配する時代です。
しかしながら、どんなに便利な時代になっても、私たちネイル育成ケア®︎士の技術は、ロボットにはできませんし、ネットでの売り買いは叶いません。
五感を研ぎ澄まし、直接に人の手に触れ、お一人おひとりに、対応した自爪を健康にする技術を提供すること。爪を健康にすると共にココロを豊かさをもたらすことを希って、独自の爪健美道®︎メソッドを魂こめて、ご提供させていただいております。
爪健美道®︎メソッドは、指先からの健康な美しさにより、皆様に笑顔を運び、ココロに豊かをもたらすことができる技術であると確信しております。
是非一度、指先の健やかな美しさとココロの軽やかさを実感してくださいませ。
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ネイル育成ケアサロングランクール誕生までの主宰の歩み
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爪健美道®︎家 花井可奈子
外資化粧品ブランド数社のマーケティングや広報、宣伝などの職を経て、 1994年ウィンバネイルカレッジでマニキュアリングの基礎を学び、1995年に渡米。 米国WINBAネイルカレッジ・アドバンストコースを修了。カリフォルニア州マニキュアリストライセンスを取得後、帰国。
自らの化粧品業界での知識や経験を活かすとともに自身の爪のコンプレックスから唯一無二の独自のケア理論を確立。 独自の自爪育成ネイルケア®︎技術『爪健美道®︎』メソッドは、2022年3月に自爪の発育方法で初の特許を取得した。(特許番号7096959)
1996年に東京、神宮前に自爪を大切にし、 自爪の悩みに対応する問題解決型のネイル育成ケア®サロングランクールを設立。 主宰自爪育成ネイルケア®リストとして、2024年3月で27周年を迎えた。 27年間で、自爪育成ネイルケア®を施したのべ人数は、ハンドケア、フットケアを合わせ、11万人を達成。
2017年一般社団法人自爪育成ネイルケア®協会を設立。 (現:一般社団法人国際TSUMEKENBIDO協会) 『爪健美道®︎』メソッドの普及や爪健美道®︎士(ネイルインナースキンケア®︎リスト)の育成に力を注いでいる。 また、『爪健美道®︎』メソッドに基づく、 自爪ファーストのオリジナルネイルケア製品『爪健美道®︎』自爪ネイルケアラインを開発、販売。
サロンのほか、アットコスメ、集英社ハッピープラス、ストアーズなどで販売中。
2023年7月までに、10アイテム13製品発売。 2023年9月に、新たに2製品を発売予定。 爪先からポジティブに。 理論的に設計された『爪健美道®︎』は、結果に導く問題解決型のメソッド。 爪先から未来を掴むネイルケア『爪健美道®︎』を100年先まで生き続ける技術を目指し、伝承しつづけている。
2023年7月より、一般の方向けの『爪健美道®︎』メソッドケアがまなべる爪健美道®︎セルフケア1DAY動画講座がスタート。
爪健美道®︎セルフケア1DAY動画講座
誕生
1962年8月29日.3260グラムで、静岡県浜松市に生まれる。
幼稚園時代
私立青葉幼稚園にバスで通う。お遊戯好きで、幼稚園の先生が大好きで憧れ、幼稚園の先生になりたいと思っていました。
今で言ういわゆるお受験幼稚園で、放課後お残り勉強をさせられた記憶があります。
私は全く覚えていませんが、両親の意図に反し、近所のお友達とどうしても手を繋いで歩いて小学校に通いたいと両親に熱望して、結局お受験せず。
母が美容室を経営していて猛烈に忙しかったため、幼稚園の遠足はいつも父が同行していました。何でうちだけ父?と思っていましたが父は、ママたちの人気者でした。笑
小学校時代~低学年~
浜松市立城北小学校。念願の近所のお友達ともちゃんと歩いて登校。
低学年
ベテランで厳しい、吉村ミエ先生が担任。現在93歳で益々お元気。今でも家でピアノをひかれています。先日初のネイルケアをさせていただきました。
私はと言えば引っ込み思案で人見知り。いつも後ろからついていくタイプでした。
好き嫌いが沢山あり、給食は毎日が地獄。残すと机を後ろに残され、食べるまでお残りさせられました。涙。給食残業。
よくコッソリ隣の席の古賀くんが食べてくれて、感謝。笑
通信簿にも、いつも何事もスローである。と書かれていました。
けれど、陸上選手の父の血筋か、かけっこは速く、毎年6年生までリレーの選手をしていました。
小学校時代~中・高学年~
中学年
若くて綺麗な土井幸代先生が担任。 この頃から、かなり活発になり、お楽しみ会やお遊戯会でシナリオをかいたり、コントをしたり、中心になって盛り上げていました。 優しくフレンドリーな土井先生が大好きで、毎日学校が楽しく、給食も大分食べられるようになり、お残りはなくなりました。 4年生でブラスバンド部に入り、トランペットを担当。 日記によると、朝礼の校旗掲揚の時のラッパ隊に、上級生に混じって吹かせてもらって感動したらしいです。笑
高学年
なにかあると、ビンタ。の怖い藤田先生。 毎日日記を提出。今でも残っていて、読み返すと愉しい。 日記によると、遠足やブラスバンドや運動会など、イベントが大好きだったらしく、毎回イベントの1週間くらい前から、てるてる坊主を作りまくり、晴れますようにと、書いてありました。 この頃は、ブラスバンド部に加え、時折陸上部や合唱に借り出され、さらにソロバンやピアノと、かなりハードな放課後を送っていました。 6年生になるとお受験勉強も加わり、さらに忙しい小学生に。 父は小学校でもずっとPTA副会長をしていて大活躍でした。 小学校時代は、3つ下の妹と毎日お揃いの洋服が朝起きるとお洒落な母がコーディネートして、リビングのソファーにセットされていました。冬は、母がストーブで温めから、きせてくれていました。 食事も季節に合わせた小皿にもられていたり、あらゆるところに鏡がつけられていたり、色彩感覚や季節感、美意識を養うためにしてくれて いたようです。 その時は、ごく当たり前にしてもらっていた事が、今の私の中にごく自然に身について、今の仕事の感性にとても役立っていることに、感謝 しています。 母は、52年美容室をしていました。そこで毎日三種の選べるデザートを出していました。 そんな母のやり方をいま受け継いでいるのかもしれません。
中学校時代
静岡大学付属浜松中学校。素敵な先輩たちのレオタード姿に憧れて、器械体操部に。
3年間体操に夢中で朝練、昼練、放課後と練習に明け暮れていました。3年生の時には、いつも市内でビリの我が校が市内で6位に入り、静岡県西部大会に出場したのは良い思い出です。
1年生、ラグビー大好きな担任の戸塚先生。英語の先生で英語が好きになりました。
硬派で男気のある、素敵な先生でした。この頃から、キティーちゃんにはまりました。
2年生は斎藤先生。技術の先生だったのであまり接点がなかったのですが、体操部が廃部になるか否かの際は、頑張ってくれたのを記憶しています。
2年生では、学校のカリュキュラムで富士登山を体験。頂上まで登りました。
3年生は数学の寺田先生。受験校だったため、沢山テストや課題があったのを覚えています。
高校時代
静岡県立西高等学校。受験に青春をかけよう。という、キャッチフレーズの校長先生のお言葉が深く印象に残っています。
元々、文武両道の男子校だったため、男子360人女子90人という構成。男子校の名残が強く、勉強も運動も体育会系並みに厳しく、女子には辛い学校でした。
毎週月曜日の授業前の早朝テストにはじまり、昼休みは学校全員で応援団の指揮のもと応援の練習。さらに放課後は、補講授業に球技大会の練習。
水泳大会やマラソン大会の翌日が実力テストだったり、夏休みはほとんどなく、学校で補習授業があるなどとにかくハードでした。先生方もほとんどお休み返上で、本当に大変だったと思います。そんな中でも、皆んなで交換日記をしたり、テスト明けにチーズケーキで今や全国的に有名になった、マルタヤさんのレディスグラタンセットを食べに行ったり、そんなささやかな楽しみが癒しになっていました。
しかし、この厳しい学校のおかげで、割とタフな精神力が培われたように思います。
この頃から美容にも目覚め、コッソリ校則をやぶり、パーマをかけたりしてました。
爪も長くして、担任の先生に注意されたこともありまし た。笑
大学時代
日本女子大学児童学科。当時、女子大生タレントだった竹下景子さんに憧れて、東京の女子大へ。
当時は女子大生ブーム。女子大生のバイブル、雑誌JJが全盛期。生協の書籍部の雑誌コーナーには、JJが背の高さより高く2列に積み上げられ、発売日に売り切れていたのを記憶しています。沢山の先輩が雑誌に載っていて、4年生が本当に大人に見えました。
周りからの刺激や影響もあり、ファッションにも美容にも興味が炸裂。当時マニキュアといえばレブロン。まだネイルサロンはない時代だから、皆こぞって自分で真っ赤なマニキュアや白パールを塗っていましたね。ただ、授業でピアノがあったため、爪をギリギリに短くしなければならず、いつも皆で愚痴をこぼしていました。笑
大学時代は、料理やケーキ作り、編み物や手芸にはまり、よく友人たちを自宅に招いてパーティーをしたり、編み物を教えてあげたりしていました。この頃から、手先でする細かい作業は好きだったようです。
当初は、幼稚園か小学校の先生を目指していましたが、徐々に将来の夢も変わっていきました。
英会話や茶道に華道、ワープロや英文タイプや秘書検定など、この頃に色々と興味がわいてきました。ワープロは、その当時の資格を取得し、カルチャーセンターで1年間講師を務めさせていただきました。
そのアルバイト代で、ヨーロッパ1周、1か月間の旅行をしたことは、とても良い思い出になっています。
OL時代 (1)
大学卒業と同時に、日商岩井系のコンピューター商社に入社。
3年半勤務したものの、当時は男女雇用均等法の施行前。一般的な会社組織の仕組みや常識は身についたものの、女性ならではのもっとやり甲斐のある仕事に就きたいと、OLの傍ら女性ならではの感性が活かせる分野への転職を模索して、インテリア、デザイン、宝石鑑定士などの学校に通いました。
まずは、小さな建築デザイン事務所に転職。そこで企画や立案、宣伝などを学び、外資系専門の小さな広告代理店、東京宣広告インターナショナルに転職。
化粧品のパルファンクリスチャンディオールの営業担当を務めました。元々、美容には深い関心や興味がありましたし、雑誌も大好き。化粧品は、色彩や使用感など、女性の能力や感性が十分に発揮できる、やり甲斐のある仕事。クライアントさんも素敵な女性ばかりで、毎日が刺激的で勉強になり、楽しく充実していました。
OL時代 (2)
そして、その経験を元に、シャネルの香水化粧品マーケティング部の広告担当に転職。
全てが一流である、シャネルの製品一つひとつへのこだわりやポリシー、広告クリエイティブのクオリティの高さなどに魅了され、益々化粧品や美容への関心や探究心が深まりました。
その後、OL時代の最後となるフランス系外資系のプブリシスFCBの日本法人FCBジャパン設立メンバーとして、ロレアルグループの営業を経て、ロレアルブランドやペリエジャポン、革製品のコーチ、ノースウェスト航空、レミージャポンなどのメディア、PRを担当しました。
いまのマニキュアリストへの道へのきっかけは、この頃に、始ります。FCBに勤めて、2年くらい経った頃から、その当時の同僚に連れられ、よくあたると評判の占い先生のもと行った時の事。
「貴方は手先の仕事をすると良いですよ。例えば、手芸や編み物や洋裁、和裁など…」といわれました。それから「手先の仕事ね~。」と何となくいつも頭の片隅に…。
そんな矢先に、ある時仕事のリサーチで、初めてエステティックサロンでネイルケアを体験しました。私は、小さい頃から弱くて形が悪い爪にコンプレックスがありましたから、初めての経験に衝撃をうけました。手元のケアの気持ち良さを初体験。本当に心地よく、感激しました。しかしながら、甘皮を根こそぎ切り取る、誤ったお手入れをされてしまったため、その後、全ての指がささくれだらけに。涙…。凝り性の私は、それからまだ数少ないネイルサロンを何軒もハシゴしました。しかしながら、結果は皆同じ。やはり、ネイルサロンは爪が丈夫で、綺麗な人が行くところなんだなあと落胆したのを覚えています。コンプレックスがある私みたいな爪の人が行けるサロンが、あればいいのになあと、切に思いました。
ある日、何の気なく見ていたテレビで、アメリカのウインバというネイルスクールが紹介されていました。私はこれだと思い、お金を貯めて2年後に渡米しようと密かに決意を固めました。そして、何年かかるかわからないけど、コンプレックスのある私みたいな人が行けるサロンを持ちたい。と大きな夢を持つようになりました。
それから、半年くらいが経った頃でしょうか。その日を夢見ながら、ウキウキ表参道を歩いていたら、何と《ウインバネイルスクール日本校設立、生徒募集》の文字。すぐさま電話番号を書きとめ、即連絡して説明会に。土曜日クラスの枠はあと2席。ギリギリセーフでした。
思いがけなく、働きながら日本を離れるリスクを負うことなく、一年半も早く念願のスクールに通える。小躍りするほど嬉しく、ご縁を感じました。そして、以前言われた占い師の言葉を思い出しました。「手先ってもしかして、これ?」と。
ネイルスクール時代
ウィンバネイルカレッジには、32歳の春から通い始めました。
1期生の特典として、1年間のカリュキュラム終了後、私がテレビで見たあの本場アメリカのウインバネイルスクールに通い、さらにアメリカ国家資格のカリフォルニア州マニキュアリストライセンス資格の受験ができるというものでした。
ハードな代理店の仕事のかたわら、土曜日はほぼ一日学校。毎週沢山の課題や宿題も出ました。しかしながら、運命を感じてスタートしたためちっとも苦になることなく、むしろ平日の仕事にもやり甲斐を感じました。与えられた課題以外に、とにかく平日の夜と土日は友人や知人と約束をし、練習をさせてもらいました。全て克明にレポートをとりました。その数、10か月で280人。
年齢的なこともあり、ライセンスを取得したらすぐに、小さくても自分のポリシーを通した、自分が通いたいネイルサロンを開きたい。と思っていましたから、本当に必死でした。無遅刻無欠席で1年間スクールに通えたのは、人生初。笑
その自主練習の中で、今のグランクールメソッドが生まれました。
スクール卒業後、FCBを退社し、渡米。
アナハイムにあるウインバネイルカレッジに通い、カリュキュラム終了後、カリフォルニア州マニキュアリストライセンスを受験し、取得した後に帰国。
日本でのスクール後半から、土日のみ、シミュレーションサロンを開設。
帰国と同時に、ネイルサロン「グランクール」を神宮前にオープンさせました。
両親からも大反対、ネイルスクールの先生からも今の仕事を続けたほうがいいと言われながらスタートしました。今の私なら、先がわからない世界にたいした貯金もなく踏み出すなんて、毛頭できるはずもありません。何の保証もないのに、何故だか不思議と失敗する気がしなかった。本当に若気のいたりです。こんな具合に、1996年、グランクールは始まりました。
TOMOKO NOGAMI
チーフ爪健美道®士
野上智子
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- お客様への一言メッセージ
- 手元は自分の体の中で1番目にする部分です。普段は意識していないですが、お手入れしたキレイな手になると、自然と目に入るたびに気分が晴れやかになることを実感します。
何歳になっても遅くはありません。
日々頑張っている手にご褒美と、メンテナンスのお手伝いをさせてください!
リラックスした時間を過ごすうちに、理想的な手元に近づきます。 - 好きなもの、こと
- ラーメン、パスタ、中華料理、和菓子、音楽鑑賞、ライブに行くこと、ホットヨガ、トレッキング、散歩、スノーボード、吉井和哉、松田翔太、井上直久、岡本太郎
- 血液型
- A型
- キャリア
- 11年
NOBUKO NAKAMURA(YOSHIDA)
エグゼクティブ爪健美道®士
仲村(吉田)展子
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- お客様への一言メッセージ
- グランクールオープン当初から、新潟に、引っ越すまで、8年働かせていただきました。
その後も、グランクールの魅力に、惹かれ続けて、月1回、上京して、グランクールでサロンワークをしています。
私自身グランクールに出会う前はつけ爪をしていたため、爪が紙のようにペラペラになっていたのですが、みるみる厚くしなやかになっていく爪を見て、本当に感動しました。
いくつになっても、綺麗に進化できるところがあることに、いつも私自身感動してます。
そして、みなさまにも実感していただきたいです。爪の削り方、甘皮のお手入れ、全てにおいて細やかで、理にかなったお手入れをいたします。
★グランクールの自爪を大切に、健康にするというコンセプトに共鳴し、それを共有したネイルサロンを新潟でさせていただいています。 - 好きなもの、こと
- 買い物、酒盛り
- 新潟のお店
- 新潟県新潟市秋葉区東島1 Un P’tit Bonheur(アン プティ ボヌール)
TEL.090-3131-9985 - 血液型
- O型
- キャリア
- 20年